21 北六番丁通りには桜並木があった?

【答えの要約】

仙台の城下創設当初、町々の防火及び用排水と、水卞農村の灌漑用とを兼ねた多目的水路で、郷六で広瀬川から取水する四谷堰が聞削きれました。堀の本流を通したのが北六番丁で、城下随一の幅広い通りの中央を流れる水路の両岸に桜を植えたのでを桜川と愛称されるようにな理ました。

 

仙台の城下創設当初、町々の防火及び用排水と、水卞農村の灌漑用とを兼ねた多目的水路で、郷六で広瀬川から取水する、いわゆ名四谷堰が聞削きれました」堀の本流を通したのが北六番丁で、城下随一の幅広い通りの中央を流れる水路の両岸に桜を植えたのでを桜川と愛称されるようにな理ました。「わが町上杉」(信夫次郎・渡辺萬次郎)に次のように記されています。

「当時(大正年間)人家の密集したのは、北六番丁までであって、その景観は今と全く違っていた。今の通りの真中に4Mも深い大きな堀に水が流れ、道路はその南北両側に分れていた。この堀は伊達政宗が川村孫兵衛に命じ、遠く郷六の四ツ谷から、放山(はなれやま)をめぐり、八幡町から東に通した四ッ谷堰の本流で、その一部分を今の県庁の前から元寺小路方面などに分ち、市内の用水としたもので、北六番丁ではその両側に桜を植えて趣を添えた。これは当時の桜川で、中杉山通や上杉山通の土橋のほか、その中間にも小さな橋が幾本もあった。桜の花の盛ーりの頃、幌をはすして人力車で通った町の医師が山高帽子を桜の枝に飛ばされたとか、中杉山南東角の火事(昭和512月日)で馳けつけた旧制二高明善寮の手押ポンプが、吸水管が水に届かず、学生が中に飛び込んだとか、直接見聞した思い出も多い。桜川はその後埋められて暗渠となり今も残っている筈だが(地下に)、ひっきりなしにその上を通る自動車の客のうち果して何人が知っていようか。」「仙台の市街及び土木建築」(小倉強。「仙台市」第3巻の内)には「北ー番丁は中央に幅広い桜川が流れていたので仙台随一の幅広い町であった。」とあります。また、「仙台地名考」(菊地勝之助)に次の記事があります。「桜川は北六番丁の通に沿うて真直に東流した四谷堰のその一筋である。今はそれが暗渠となり、道幅も広くな。ているが、かっては北六番丁筋の南側を流れ、両岸には並木が植えられ、花の折にはなかなかの眺めであったので、桜川とも読んだのである。いまはその面影は見ることができない。」この桜川も、仙台市の全市的な都市化の取り組みである下水道整備事業の一環として昭和10年〜11年の工事で暗渠に埋め立てられました。