17 袖振丁で狐を斬った剣客がいた?

【答えの要約】

郷土の伝承と民話に「袖振り丁に出る狐を斬った狭川新三郎の逸話」があるが、狭川家は実在し、伊達政宗公より柳生但馬守宗矩に柳生新陰流の伝授を乞い、師範とし300石で召出されて以来の新陰流兵法の家筋であり、狭川家は養賢堂へ撃剣場を設け、新陰流家業狭川新三郎を指南統取となし、以後、幕末まで、現在の東市番丁、現在の七十七銀行一番町支店付近に屋敷を構えた。

 

「郷土の伝承」成田芳無氏報に民話として次のように表されている。【要約】仙台市小田原の一角に蜂谷屋敷と呼ばれる地域がある。そこはもと蜂谷長者といわれた蜂谷定国の屋敷で、藩政時代その一角に栗の古木があった。その頃夜になると老樹の下に、振袖姿の白い顔の女が佇んで、小路を通る人にニタニタ笑いかけたといわれ、その通りは夕方になると通行が途絶えてしまった。それを聞いた剣客狭川新三郎が夕方に出かけると、やはり怪しい振袖姿の女がニタニタ笑いかけた。新三郎が小柄を投げつけると、キャッと声を立て手応えがあって、女の姿は闇に消えた。翌朝調べると、劫を経た古狸が咽喉を刺されて死んでおり、それ以来妖異は絶えてしまい、誰ともなく袖振丁と呼ばれるようになった。その後、誰が建てたのかこの屋敷内に狸塚とよぶ小祠があり、明治の頃まで残っていたという。一説にこの通りの屈折の形が振袖に似ているからともいわれる。以上、

狭川家は実在した。伊達政宗公より柳生但馬守宗矩に柳生新陰流の伝授を乞い、師範としてを延宝5(1677)年 に狭川新三郎助直が仙台伊達家に300石で召出されて以来の新陰流兵法の家筋であり、狭川家は養賢堂へ撃剣場を設け、新陰流家業狭川新三郎を指南統取となし、以後、幕末まで、現在の東市番丁、現在の七十七銀行一番町支店付近に屋敷を構えた。