19 通りの名前には悲しい歴史が隠されている?

「答えの要約】

「樅木は残った」は山本周五郎の歴史小説で、江戸時代前期に仙台伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしています。上遠野掃部は伊達騒動―寛文事件―の主人公「原田宗輔―原田甲斐―」の妹を妻にしていたことから、寛文事件後にこの掃部屋敷で、原田家一家は幼児に至るまで斬首されとと言われます。

 

仙台駅北側の花京院地区に「掃部(かもん)丁」と呼ばれた街区があります。「通り名」として、「掃部丁」(かもんちょう)と「末無掃部丁(すえなしかもんちょう)」の両者が今に受け継がれており市民に重宝されております。

「末無(すえなし)」とは通り抜けの出来ない袋小路を意味し、通り抜け可能となったのは明治以降のようです。寛文や元禄頃の仙台城下絵図をみると末無掃部丁は一目瞭然、鉤型になった行き止まりの路地でありました。この路地は仙台領の武士「上遠野掃部(かどのかもん)」のひときわ広い屋敷に通じる専用通路でありました。

 「上遠野掃部屋敷」の広さは『仙臺鹿の子』に「四方百三十間」とあり、その家主の大身ぶりが推察されます。「樅木は残った」は山本周五郎の歴史小説で、江戸時代前期に仙台伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしています。上遠野掃部は伊達騒動―寛文事件―の主人公「原田宗輔―原田甲斐―」の妹を妻にしていたことから寛文事件後にこの掃部屋敷で、原田家一家は幼児に至るまで斬首されとと言われます。原田家は事件で断絶したものの、本来は仙台領における奉行職で重臣―であり、当の宗輔―甲斐―などは奉行首席にまで引き上げられた人物で、東照宮造営の際の総奉行でした。その後、上遠野掃部は屋敷替えされ、薬種園となったと言われます。