仙台東照宮と宮町商店街の歴史

【要約】

東照宮祭礼は創建の翌年1655年に忠宗公により始まり、以後1852年まで約200年間に渡り114回行われ、仙台城下で行われた最大の祭で、仙台祭とも呼ばれました。仙台城下町をほぼ一周する約10キロの行程を数千人に及ぶ祭礼行列が渡御。祭礼の行列は、足軽・騎乗の武将行列、最大七十基を超えた山車、神輿、別当仙岳院供奉行列、後陣供奉の足軽組・武頭と続き、行列は東照宮の氏子町である御譜代町を中心十八ケ町で行われましたが、御譜代町に限らず、次第に仙台城下町の町方二十四ヶ町に広がりました。山車を担ぐのは村方の人々であり、祭礼行列は武頭・足軽、町方、村方からなる、まさに仙台領総挙げの構成でした。

お宮町に商店街が形成されてきたのは、そんな仙台祭開催の頃から言われ、近郷近在から多くの物見遊山の来訪者が溢れたと記録にあります。その頃1670年(江戸時代)の仙台市の人口は57000人、その内29000人が武士だったといわれています。令和3年11月の仙台市の人口は約100万人。

近年の宮町商店街は、戦後の昭和30年(1955年)~40年(1965年)頃、南光台や鶴ケ谷などベッドタウンが出来始め、市内中心部にお買い物に行く前に、宮町で安くていいものが手に入ると多くのお客様が詰めかけていました。

 

仙台東照宮の門前町として発展した宮町商店街は、伊達家二代領主 伊達忠宗公が、東照宮大権現を伊達家の守護神としてお祀りするため 慶安2年(1649)5月に東照宮造営を三代将軍徳川家光公に勧進、8月に普請始を行い、本殿、唐門、透塀、幣拝殿、本地堂、御供所、御厩、鐘楼、随身門、鳥居、別当時仙岳院、御旅宮などが完成したのは着工以来5年後の承応3年(1654年)3月です。

仙台東照宮が建立される以前は、文永年間に島津陸奥守が勧請したと伝わる天神社でありました。この一帯は、「玉崎・玉手崎・玉田」とも呼ばれ、源俊頼が「とりつなけ 玉田横野の放れ駒 つつじが岡に あぜみ花さく」と、詠んだ「玉田横野」もこのあたりと言われています。台原の「瞑想の松」は、「國分彦九郎盛重」が天神社の霊地を穢さないように植えた松と言われ、詩の中に「放れ駒」とあるように、このあたりを含む一帯、現在の仙台市青葉区荒巻・北根から同宮城野区鶴ヶ谷・小田原、上谷刈・古内にまで至る七北田川(冠川)南岸の一帯は「科上(しなのえ)郷」と呼ばれた荒駒放牧の地で、少なくとも陸奥國分寺が奥州産馬の取引拠点として機能し始めた奈良時代にまでは遡れるでしょう。その後、国分氏の荘園となり小俵邑と呼ばれ、古来より天神社を中心に、薬師堂付近の国分氏の城下町「国分日町」の北端に位置し、国分氏の守本尊 覚性院と春日神社が、現在の東六小の位置に配された門前町を形成していました。

1670年(江戸時代)の仙台市の人口は、57000人で その内、29000人が武士だったといわれています。令和311月の仙台市の人口は、当時のエリアを大きく超えている範囲とは言え1,097,421人を数えています。

東照宮祭礼は東照宮造営の翌年、1655年から始まりました。江戸時代を通じて行われ、仙台祭とも呼ばれました。2代藩主伊達忠宗公以降13代まで全ての歴代仙台藩主が祭礼に合わせて東照宮を参拝されました。お祭りの行列は数千人に及び、遠方からも見物が訪れるなど仙台最大のお祭りでした。お宮町に商店街が形成されてきたのは、仙台祭開催の頃から言われ、近郷近在から多くの物見遊山の来訪者が溢れたと記録にあります。

近年の宮町商店街は、戦後の昭和30年(1955年)~40年(1965年)頃、南光台や鶴ケ谷などベッドタウンが出来始め、市内中心部にお買い物に行く前に、宮町で安くていいものが手に入ると多くのお客様が詰めかけていました。