星殉太郎は東照宮の宮司さんだった?

【答えの要約】

いいえ、東照宮の宮司さんではありませんでしたが、宮司さんの息子さんでした。星殉太郎は幕末の戊辰戦争で額兵隊を率い、自ら相馬口へと南下し相馬中村城を占領。額兵隊250名は松島湾に停泊中の榎本艦隊に合流、榎本武揚や、新撰組の鬼の副長 土方歳三らとともに、一路、蝦夷地 函館の五稜郭に出陣しました

 箱館戦争で、恂太郎は陸軍歩兵並として榎本武揚の信任を得。土方歳三ととも松前城攻めで功を挙げるなど蝦夷政権陸軍の一翼を担い、大活躍しました。

 

星家は代々仙台東照宮六供を歴任した家で、塔頭の一つである清浄光院に恂太郎のお墓がある。本堂の西に「星恂太郎碑」と刻印された石碑がひっそりと建ち題額は榎本武揚による。天保11年、星恂太郎は東照宮宮司星道榮の息子として生まれた。恂太郎は生来激しい性格で喧嘩早く、とても家督は継げまいと、藩の台所人・小島友治の養子に出されているが、「包丁ではなく剣で忠義を貫いてみせる!」と無断で生家に戻ってしまう。

 城下の人たちは口々に「あれは狂人恂太郎」と嘲笑したが、恂太郎はむしろそれを面白がって「恂太郎忠狂」と自称し、武芸を磨いたという。 

 恂太郎は過激尊王攘夷に染まり、事実、仙台領で開国論を主張する家老・但木土佐の暗殺を企てた。しかし大槻磐渓に世界情勢への蒙を開かれると一転して仙台から出奔、江戸に修行に出る。恂太郎を資金面で援助したのが、暗殺対象だった但木土佐である。はじめ恂太郎は江戸で銃隊編成訓練を学び、その後は横浜に赴き、アメリカの貿易商人・ヴァンリードの店で使用人として働きながら、夜は西洋砲兵術を学んだ。ちなみに、仙台藩からアメリカに留学する高橋是清らの面倒を見たのもヴァンリードで、紹介したのは恂太郎である。もっとも、この後、ヴァンリードは学費や滞在費用を着服し、是清は奴隷に売られるなど、酷い目にあったと述懐している。

額兵隊結成、箱館戦争を戦い抜く 

鳥羽伏見の戦いの後、仙台領は奥羽列藩同盟を主導、装備の近代化を急いだ。洋式部隊の編制にあたり、白羽の矢が立ったのが恂太郎で、但木は恂太郎を仙台に呼び戻し額兵隊を組織させる。額兵隊は元込め式のスナイドル銃を装備、イギリス式調練を受けた仙台領の精鋭部隊だった。隊員は家中の次男、三男から募り、6個小隊編成で総員約800名。士官隊の他、四斤施線式砲2門、榴弾砲1門、砲兵や工兵だけでなく、軍楽隊まで編成された。またイギリス軍に倣って赤黒リバーシブルのラシャ製の軍服を着用し当時としてはハイカラな軍隊が出来上がった。仙台では額兵隊に活躍の機会はなく、米沢が降伏、会津は落城間近、国境に新政府軍が迫り来る中、仙台領は早々に降伏を決めてしまう。

もちろん、苛烈な恂太郎が戦わずして矛を収めるはずはなく、額兵隊は自ら相馬口へと南下し相馬中村城を占領してしまう。しかし藩主伊達慶邦自らの説得により恂太郎は仙台で戦端を開くことを諦める。しかし「薩長何する者ぞ」との思いは収まらず、額兵隊250名は松島湾に停泊中の榎本艦隊に合流、一路、蝦夷地に向かう。

 箱館戦争で、恂太郎は陸軍歩兵並として榎本武揚の信任を得。土方歳三ととも松前城攻めで功を挙げるなど蝦夷政権陸軍の一翼を担う。しかし、時代の流れに抗うことはできず、新政府軍が本格的に反撃に転じると、木古内の戦いで敗れ、自決しようとしたところを部下に止められ、五稜郭へ戻っている。五稜郭総攻撃の前夜、薩摩の黒田清隆が酒樽五樽と肴の鮪五尾を送ってきた。兵たちは毒を恐れてこれに手を付けない。すると恂太郎は、「窮余の我に対していかでか毒を盛らん、安んじて酒を酌むべし」と大笑いしながら樽の鏡を割り、美味そうに一杯飲みほし、諸将もこれに従ったという逸話がある。もともと酒好きの恂太郎だが、箱館では禁酒をしていた。この夜の酒の味は、終生忘れ得ぬものとなった。

維新後

戦後は新政府軍の捕虜として弘前領に幽閉、明治3年に釈放されている。その後は開拓使大主典となって北海道岩内に移り、同じ仙台の士の細谷十太夫らと製塩業を営むが思うように利益は上がらず2年後には廃業して仙台に戻っている。そして明治9727日、37歳で没。 

なお、恂太郎には、箱館出征直前に結婚したつるとの間に二女をもうけている。長女は榎本対馬の次男・孝三郎に嫁ぎ、次女は樋口忠一に嫁ぐ。

 毎年執り行われる函館五稜郭祭では、維新行列での額兵隊は、イギリス軍に倣って赤黒リバーシブルのラシャ製の軍服を着用するなど、ハイカラな軍服は赤で統一され、祭りの華と言われ、今も市民に親しみを持って愛されている。また箱館戦争を描いた多くの小説や、映画やドラマに登場し、赤いラシャの軍服を着用し整然と行進・先頭する姿が多く描かれるが、仙台にあっては星恂太郎や額兵隊の活躍は知られていない。