13 東六番丁はサムライの街だった?

【答えの要約】

東六番丁には亘理伯耆の下屋敷があり、その後屋敷は中級武家の屋敷に割り出された。茂庭周防の下屋敷は東六小学校の東側にあり宮城交通の操車場として一部が残り、片倉小十郎の下屋敷はキリンビールの工場となった。

 

仙台城下の特徴

仙台の市街地は言うまでもなく伊達政宗が作った城下町が起源となっている。江戸時代、日本でも有数の都市に発展した仙台は、現在の街並みには城下町の面影を感じることはほとんどできない。かつて街の中をくまなく流れていた四ツ谷用水の流れも、広大な武家屋敷とそこに植えられた多くの木々に由来する「杜の都」の原風景も、軒を連ねた商人たちの町屋もあらかた姿を消した。しかし、実は街のそこかしこに城下町の痕跡が残り、そこには政宗の街づくりに込めた思いが、今でも息づいているのである。

城下町の一般的な形状は同心円構造と言われる。城を中心に、周囲に重臣屋敷、その外側に中級家臣の屋敷を配し、足軽などの下級家臣や町人の屋敷を外縁部に配するというものだ。しかし、仙台の場合は、城が山際に設けられたため、必然的に同心円構造をとることができない。城の近くの川内や片平丁に重臣の屋敷が配され、その外側の東一番丁から東六番丁、北一番丁から北六番丁などに中級家臣の武家屋敷街があり、城下の外縁部の堤町や二十人町・鉄砲町・弓ノ町・三百人町などに足軽居住空間が設けられている。この様子は、同心円構造の中心から扇状に一部を切り取った構造と見ることも可能ではある。かつて重臣の屋敷が並んだ片平丁付近。現在は裁判所や片平丁小学校、東北大学などの敷地となり、武家屋敷の屋敷林を思わせる木々が街路を彩っている。だが、政宗公が作った当初の城下町の構造は、どうも単純な同心円的とは言えない様子が見られる。仙台城周囲の重臣屋敷はともかく、その外側は中級家臣の屋敷ではなく町人たちの居住空間が設けられていたのである。現在の西公園付近は「元柳町」といい、城下町建設当時は町人町の柳町があった場所である。また、仙台高等裁判所の東側はかつて「本荒町」という町名であったが、ここも江戸時代初期に町人町の一つである荒町が置かれた場所であった。「東○番丁」「北○番丁」といった中級家臣の屋敷よりも城に近い場所に配されたこうした町人町の中核をなしていたのは、米沢城下から岩出山、そして仙台へと政宗とともに移ってきた「御譜代町」と称された、町人たちの町であった。その結果、町人たちが住む町屋敷は、城下町が展開する河岸段丘上のちょうど中心部に配されたことになる。その場所は中級家臣の屋敷よりも仙台城に近い場所であり、また地盤的にも堅固で安定した土地であった。この配置は、政宗が考えた街づくりの重要な柱の一つが、商工業の重視にあったことを示している。

そして、その御譜代町の商人らは、奥羽仕置以降、伊達氏の居城が米沢から岩出山そして仙台へと移るに際して、米沢城下の都市民の多くが伊 達氏と行動を共にしており、仙台城下町のなかでも町人地の中心をなす六つ の町(大町・肴町・南町・立町・柳町・荒町)も伊達政宗に付き従って米沢 から移動してきた人びとによって構成されているが、彼ら「御譜代町」の住人たちは、米沢時代に商工業を生業としながらも実は伊達氏の家臣としての側面を兼ね備えていました。そして、江戸時代に作成された系譜に記されている彼らの先祖が伊達氏に従って軍陣に参加したとする記録は事実であり、また米沢時代の町衆が政宗の直属部隊として編成されていたことを示す天正年間1573-92末頃の記録もみられるという。確かに百姓・町人らが伊達の軍勢に従軍していたことがわかる史料は「伊達家文書」に見る事が出来る。この時代までは馬上の奉公をする百姓・町人を政宗やその右腕たる片倉小十郎景綱自身が求めていたのである。その背景として、近年、中近世以降期の研究で注目さている土豪や村の侍の存在があったことは容易に推測できる。慶長五年(一六〇〇)のいわゆる東北の関ヶ原合戦にあたって上杉氏と対峙する最上勢への加勢として派遣され た伊達の軍勢のなかに「検断」や「肝入衆」の名前があり、「百姓馬上」もいたことがわかる。 つまりは、農民も町人・職人も検断肝入も兵として戦った歴史があった。

東六番丁には亘理伯耆の下屋敷があり、その後屋敷は中級武家の屋敷に割り出された。茂庭周防の下屋敷は東六小学校の東側にあり宮城交通の操車場として一部が残り、片倉小十郎の下屋敷はキリンビールの工場となった。仙台輪中の唯一の武家屋敷は東六番丁、長丁通り角の安藤家住宅であり、角田石川家の流れを汲む石川家も江戸時代よりこの地に住む。