COLUMN・歴史秘話

仙台遊郭事情

【歴史に見る新常盤町遊郭】         

常盤町遊郭は,広瀬川を挟んで陸軍第二師団の向かい側北一番丁の西のはずれにあった「常盤町遊郭」(現・仙台市民会館周辺に所在)が,陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないという理由や,日清戦争に伴う綱紀粛正により1894年(明治27年)に同じ北一番丁の東はずれにあたる当地小田原蜂屋敷跡に,楼閣,楼主,そこで働く全員が集団で移転させられ「新常盤町」と呼ばれるようになりました。

 敷地面積は約4.7haあり,現在の仙台市青葉区小田原6丁目の西半分,宮町3丁目のごく一部,および,宮町2丁目のごく一部に広がる広大な土地でした。

この地は仙台城下町の第3次拡張が延宝年間(1678~1681年)に実施され,宮城郡小田原村の一部が城下町に組み込まれました。このとき,車通・山本丁・金剛院丁・広丁・大行院丁・清水沼通・牛小屋丁・蜂屋敷の「小田原八丁」が町割りされました。この「小田原八丁」のうちの1つ『小田原蜂屋敷』※1に立地。遊郭は当時の仙台市の外れに位置し,敷地のほとんどは市内でしたが,中央通の北端に位置する「病院 駆黴院」※2の区画のみ宮城郡原町でした。

 

新遊郭の名称は二転三転,当初「比翼町」や江戸時代の名称による「八重垣町」などが候補となりましたが,最終的には新常盤町となりました。☆1

 公娼制度は昭和21年にGHQにより廃止され,売春防止法の成立(昭和31年),32年から一年の猶予期間を経て,売春防止法の施行により,1958年(昭和33年)3月31日で根絶されました。終戦後徐々に楼閣跡は旅館街に衣替えして通称を「旅籠町」に改称しました。 

 ちなみに遊郭で亡くなった娼妓で無縁仏となった女性は北六番丁「万日堂」の『仙臺睦之墓』(1904年建立,戒名は『慈照妙喜信女』)に葬られました。

 

「新聞の記事に残る新常盤町」

明治27年に移転した新常盤町で初めて行われた七夕は,各楼が意匠を凝らした飾り物を多くの人々が見物に訪れたといい,当時の新聞☆2では「……斯る人出は遊廓移転以来始め見る処にて,之が為めに各楼とも相応の来客ありて頗るに賑へり,而して小田原新丁,車通辺は昼さへ通行人の稀なる処なるも同夜は往来の繁きこと近年其比を見ざる処なりし,」と報じられたように,遊郭の開業は帝国大学の学生や陸軍第二師団や歩兵第四連隊の軍人に,東北各地の商人など新たな人の流れを生み出しました。その一方で,「小田原宮町は職工又は日雇人等多く借家し居る処なるが,新遊廓の同所に移転せし以来家賃騰貴せしを以て,夜立して移転する者多きよしなり」と新聞☆3でも指摘されたように,遊郭移転は周辺地域の開発の呼び水となり,地価と家賃を高騰させ一種のジェントリフィケーション※3を生じさせ,常盤町の移転は仙台市の都市構造に一定の変化をもたらしました。移転当初の貸座敷数は19軒で,1901年12月末には大楼が8,中楼が11,その他が16の合計35軒と増加し,娼妓の数も263人となりました。規模の拡大と都市化にともない大正期に入ると,楼主らは「一心会」を結成 ,娼妓の取締の強化や教育にも着手。さらに働く側は「仙臺貸座敷従業員組合」昭和會規約※4により多くの制約を受けました。遊郭をめぐる状況とその変化は,「軍都」「学都」と呼ばれるようになった仙台を映し出すひとつの鏡と言えまましょう。

 

※1小田原蜂屋敷の逸話は今号の「教えて浄圓房さん」にて掲載

※2駆黴院(くばいいん)は,明治時代,娼妓が病に罹患しているか否かを検査し,治療した病院で新常盤町に設置された。

※3ジェントリフィケーション(英語: Gentrification)とは,都市において比較的貧困な層が多く住む中下層住宅地区に,再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し,地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象を言う。

 

☆1「新遊廓の名称未だ定まらず」『東北日報』明治27年1894年4月13日版。 

☆2 「遊廓たより」『東北日報』明治27年1894年8月8日版。 

☆3「借家賃の騰貴」『東北日報』明治27年1894年3月29日版。

東北日報は一力健治郎により明治30年に買収され後,河北新報に継続された。

 

出典:研究ノート 

明治期の仙台市における遊郭移転問題と都市社会「空間・社会・地理思想20号」

日露戦時・戦後の仙台〜都市と軍隊に関する覚書〜「空間・社会・地理思想18号」

明治前半期の仙台における軍事施設配置の特異性について「日本都市経学

 

仙台音楽事情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一年を通して,街中に音楽が響き渡る仙台

では仙台に,どうしてジャズが根付いて行ったのか?

ミュージシャンが多く居たのか?

仙台の街や,風俗とともに音楽シーン,ミュージシャンはどんな経緯をたどって来たかのを考察しつつ解説します。

 

仙台は学都と呼ばれる街

 

ちなみに総務省のデータによると、、、、ちとデータ古いが

2002年(平成14年)5月1日現在、仙台市内には、大学、短期大学、高等専門学校が計16校、専修学校、各種学校が計64校あり、それらの在学者数は77,112名、本務教員数は4,820名であり,これらの若者や教職員らは同市にとって重要な資源となっている。2008年(平成20年)5月1日現在,仙台市内で幼稚園から大学までの教育機関に在校するのは約20万人とされるほか,2001年(平成13年)5月1日現在における,人口あたりの学生数は13大都市中,大学院生で2位、大学・短大生で4位,専修学校・各種学校の学生数で2位とある。

仙台が「学都」としての名声を確立したのは古く、既に明治40年(1907年)12月の地元紙に「学都と学界」 という標題の記事が見られ、大正年間にも「学都」の呼称が印刷物に見られます。「学都仙台」の基礎は、仙台藩の藩校「養賢堂」 及び明治6年(1873年)に設置された宮城師範学校にさかのぼることができますが、 仙台の学都としてのイメージ形成に大きな役割を果たしたのは、明治20年(1887年)に設立された第二高等中学校(明治27年(1894年) 第二高等学校)と明治40年(1907年)に設置された東北帝国大学です。

明治19年(1886年)の中学校令により、尋常中学校が各府県に1校、高等中学校が国直轄として全国に5校(東京、仙台、京都、金沢、熊本) が設けられることとなり、明治20年(1887年)、仙台には第二高等中学校が開校しました。

また、明治40年(1907年)には、 仙台市や宮城県をはじめ、東北、北海道の各道県が協力し、仙台に帝国大学を誘致しようという10年の歳月をかけた運動が実り、 東北帝国大学が全国で3番目の帝国大学として仙台に誕生しました。 

 

同時期、私立学校は中等教育機関の充実に大きな役割を果たしました。

明治19年(1886年)には私立東華中学校、仙台神学校、宮城女学校、明治25年(1892年) には尚絅女学校、明治26年(1893年)には仙台女学校が開校しています。

こうした中等教育の普及に促され、明治34年(1901年)には仙台医学専門学校、 明治37年(1904年)には東北学院専門部、明治39年(1906年)には仙台高等工業学校などの高等教育機関があいついで設置され、「学都仙台」の基礎が築かれたのです。

 

若さ全国トップ 活気あふれる仙台

仙台は平均年齢38.4歳と,堂々全国1位の若さです。若年層の割合が非常に多いようです。そういえば,若い人向けのお店がとっても多い!でも,平均寿命は全国が男子3位,女子が2位と,年配の方が少ないというわけではないようです。

 

学都仙台 ~仙台は学生がとっても多い!?~

『学都仙台』の名の通り仙台には大学生・短大生,そして専門学校生をあわせると7万人〜10万人を超える学生がおり,この数は全国にもとても多く,平均年齢が若くなるのも納得!

 

緑あふれる、住みやすい街 仙台

100万都市でありながら「杜の都」と呼ばれるほど、街なかは緑にあふれ、澄んだ水を蓄えた広瀬川が街中に潤いを与えています。1位京都、2位静岡につぐ堂々の3位です!

「うるおう杜」仙台。やっぱり、住むなら仙台。でしょうか!あくまで手前味噌なお話!

 

そう、今の仙台は学生と若者の街。

しかし、その昔は、軍都!軍人さんがとても多かった。

・第二師団 四連隊 陸軍地方幼年学校

・戦後は駐留軍(進駐軍)が大勢居た。

青葉城周辺(旧第二師団)榴岡公園(旧四連隊 陸軍地方幼年学校跡) 

苦竹(現自衛隊東北方面隊)多賀城自衛隊(旧弾薬庫)

自衛隊のあとには警察など。現在も防衛施設局や警察関係が多い。

軍人が多数居て、駐留した時代が随分と続いていて,それらに伴う官僚や役人、商人に荷受けに運搬事業,そしてその家族。計り知れない数である。それらに支えられた商店,花柳界,それに,地回りに労役や風俗に関る江戸時代から続く街衆が営々と営業していた訳だ。

 

そこには風俗としての音楽(戦前の音楽)と(戦後のJazz)があった。

旧日本軍の軍隊を支える花柳界や、風紀の抑制や対処の為の花街や遊郭とともに。

進駐軍には各営巣ごとに階級制の酒場が設けられ、その階級ごとの酒場には各階級ごとのクラブ毎にバンドを雇っていた訳だ。仙台にはそんなクラブが沢山あった訳。

そこから育ったジャズシンガーやバンドマンがわんさか居た。

有名になった人も多いし東京や全国区で活躍した方々も大勢居た。

東京ユニオンのバンドマスターの高橋達也さん。

フランク永井さんや多くのミュージシャン達。

進駐軍相手のキャバレーやクラブや伴う施設が戦後早くからあった訳で、そんなミュージシャンは掛け持ちをしていた。

 

進駐軍が去るとミュージシャンは野に放たれる。第1回目の放出

 

バンドマンを抱えていた店の一例<昭和20年代から昭和50年代>

・蘇州

・ニュージャパン

・タイガー

・クラウン

・チャイナタウン

・ナイター

・花馬車

・レディータウン

・天国

以上キャバレー

 

・カントリークラブ

・川政クラブ

・アネックス

・オロオロ

・サロンドたわらや

・バー俵屋

・クラブ太田

・ソワレドパリ

・カルダン

・クラブ潤

以上グランドクラブ

 

その他

・ジャンボミカド

・純情

・未亡人クラブ

 

ダンスクラブ

・ラブラブ

 

その後は

・クインビー

・ロンドン

・カーニバル

という様なチェーン展開したクラブやキャバレー、ミニクラブがバンドを抱えた。

 

仙台にはその他にトリオやバンドを擁して毎日演奏をしていたレストラン、メインダイニングのあったホテルが数多かった。

 

<一例 昭和20年代~昭和60年代まで>

・仙台ホテル 5階メインダイニング兼メインバー フォンテーンヌブロー

・ホテル仙台プラザ 15階メインダイニング メイプル

・東急ホテル 地下1階 メインバー 名前が思い出せません!

・ターミナルホテル(現ホテルメトロポリタン)15階 ベルシャポー

・国際ホテル 1階メインバー ロイヤルアスコット

・ワシントンホテル ガスライト

・宮城第一ホテル 最上階 メインレストラン

・JALCITY 最上階 メインダイニング  J-ラウンジ

みんなバンドが入っていた。

 

キャバレーやクラブには有に及ばずバンドを雇う店は何処も大繁盛した。

1つのキャバレーでビッグバンドにチェンジバンドでコンボバンドという風に

2バンドを雇う店は当たり前にあった。

流行り廃りはあっても何処も盛況だったし、多くキャバレーはタンゴバンドにハワイヤンバンド、ブルーグラスにロカビリー、GSブームにムードコーラスブームと多くのバンドはその形態を変え乍ら進化して行った。雇う方も多くのアプリケーションを抱えた方が大儲け出来た時代だ。だから全盛期は何処も3バンドぐらいは雇っていた。

その他にダンスホールが隆盛を極めた。そこも2バンド編成。

だいたいの編成人数は以下の通り

 

ビッグバンド

・サックス5人

・トランペット4人

・トロンボーン4人

・3リズム

・ピアノ1人

・ベース1人

・ドラム1人

・ギター1人~2人

15人から18人の編成

 

ビッグコンボバンド7人から10人

コンボバンドが4人から5人

タンゴバンド5人くらい

ハワイアンバンド5人から8人

ロカビリーバンド4人から8人

カントリーバンド4人から8人

そんな編成のバンドが2バンド以上であり、そんなグランドキャバレーが10件程あった。グランドクラブもあり小さいクラブやバーパブ等、多くがバドを雇い、商売が成り立っていた。だから、1つの店で15人から多くは30人ほどいたバンドマン。掛ける事の10件で約300人以上のプロがそこには存在した。

 

そして昭和の時代が幕を閉じようとしていた時代にキャバレーの時代が去り

そして仙台はゼネコン汚職を経て 官吏と軍と商人とゼネコンとに見放された

料亭とキャバレー、高級クラブが姿を消した。接待と風習とともに。

忘れてはならない視点は、支店経済の都市という一面。現在も続くその構図は変わらない。しかし、かつての様な接待だか自己接待だかの裏金やキープは今は昔、官官接待だかのような湯水のごとく使えた時代ではないし、ゼネコンもあれ以来息を潜めて居るし、ましてや薬価基準が大幅に見直されたい今、製薬会社も丸抱え的な接待は無いに等しい。市民オンブズマンも仙台が日本の発祥だ。

 

かくして、そんな経緯からバンドマンの第2の放出があった。

♪料亭での接待の基本である芸者さんもしかり。料亭が姿を消して芸者さんはかつての旦那さん、お大尽が居ない中、踏ん張っている。♪この話はまた別の話、、、、

 

フランス革命後のフランスには宮廷料理人が沢山下野したことで現在の様なフランス料理が開花し文化として根付いて今に至る歴史を見る様に、仙台もミュージシャンの2回の放出による下野があった訳である。

かくして、そのミュージシャン達は今、定禅寺ストリートジャズフェスティバルや各イベント、様々な音楽シーンで玄人はだしの、素人面した上手いミュージシャンに遭遇するに至る。

後々にはなるが,そんな流れを汲んだハコ(箱)出身の音楽家が多く存在して,稲垣潤一さんはつとに有名!

 

約300人〜500人居たプロのミュージシャン達。

30年以上前、平均的なサラリーマンの収入の4倍~10倍の収入を得ていた人も数多い。だが、、、今は。

 

しかし暗い話題だけではない。最近、一時期激減したジャズクラブが駅東口と南町通り、一番丁に2~3件出来た。まだまだ増える予兆もある・・・

頼もしい限りである。

 

今日はここまで・・

 

編集長:千葉富士男 書く