11 仙台七夕まつりは常盤町遊郭からヒントを得た?

【答えの要約】

「新聞の記事に残る新常盤町」明治27年に支倉の地より移転した小田原の新常盤町で初めて行われた七夕は,支倉の常盤町遊郭での七夕飾りを継承、各楼が意匠を凝らした飾り物を多くの人々が見物に訪れたといいます。そんな風景を大町商店街の方々が自らの商店街で開催したのが現在の七夕祭りにつながります。

 

仙台七夕祭りの起源は江戸時代以降伊達政宗の時代から風習として婦女子の修練の象徴としての恒例行事であった七夕祭りは、七夕まつりは旧暦の77日に行う行事で、この時代の仙台でも77日に七夕飾りを飾って祭りを行い、8日に飾りを川に流していましたが、第7代藩主・伊達重村公の時代から日程が1日繰り上がり、6日に祭りを行い、7日に飾りを流すようになったそうです。旧暦77日は七日浴や七日盆と呼ばれ、お盆の準備に入る前盆の行事日という位置づけでもありました。飾り付けた笹を広瀬川に流し、水を浴びや洗い物をすることで「みそぎ」とし、盆祭に入る準備をしていました。民間にも広く浸透した七夕まつりでしたが、明治維新後は暦が新暦に変わりやがて廃れていったと思われます。しかし、新聞記事によりますと「新聞の記事に残る新常盤町」明治27年に支倉の地より移転した小田原の新常盤町で初めて行われた七夕は,支倉の常盤町遊郭での七夕飾りを継承、各楼が意匠を凝らした飾り物を多くの人々が見物に訪れたといいます。

 

以下、明治〜大正〜昭和へと続く七夕祭りの変遷と継承

明治6年(1873)明治政府によって旧暦から新暦へ改暦が行われたが、依然として年中行事を旧暦で行う地域が多く、仙台の七夕もしばらくは旧暦で行われていた。改暦と共に五節供も廃止されたことから、江戸の七夕は次第に忘れられ衰退していった。しかしその中で仙台の七夕は女子や家庭の祭りとして続けられ、家毎に七夕行事として守られ、廃れることなく独自に発展してきた。明治43年(1910)より、宮城県では七夕・盆行事などを新暦の1カ月遅れで行うように定めた。月遅れの8月6日〜7日が七夕祭りとなり、以後今日まで続いている。

資料:写真

朝顔、茄子、魚などの七夕の仕掛物は、全国でも類のないユニークな仙台独特の飾り物です。1889(明治22)年の新聞には、竹飾りの他に仕掛け物もつくられていて、肴(さかな)町、国分町、常盤町などが盛大であったことが記されています。戦前の仙台七夕の飾り物は大正6年(新常盤町)で撮影された絵葉書の写真で但し書きには 絵葉書(仙臺名物)七夕祭(新常盤町)新常盤町は、明治27年に常盤町から遊郭を移して出来た新常盤町で、七夕祭りは仙台市内でも有名で賑わった。と記されていました。

明治32年(1899)の「仙台開市三百年記念祭」を最後に「仙台祭」が中止され、それに代って「七夕祭り」が盛大になっていった。当時の新聞記事等によれば、肴町・国分町・常盤丁の飾り(仕掛)が盛大で華やかであったようである。また裁縫学校生徒の雛形を主とした飾りなど、技芸の上達を祈る本来の姿を保った竹飾りもあったようだ。

大正12年(1923)の関東大震災後の不景気転換をねらって、大正15年(1926)8月6日に、商店街は「七夕祭連合大売り出し」を行っている。東一番丁・新伝馬町の「中央大売り出し」、国分町の「誓文払い」、南町通の「よる市」、大町五丁目の七夕競技会「懸賞七夕祭り」などである。この成功を機に従来の仙台の七夕は、商店街の七夕飾りが主流となっていく。

不景気を吹き飛ばそうと昭和2年、商家の有志達が仙台商人の心意気とばかりに、新常盤町などで行われていた華やかな七夕飾りを中心部商店街で復活開催しました。提唱したのは大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛氏を中心に、桜井常吉氏、三原庄太氏らが協力して、町内一斉に七夕を飾りつけました。 久しぶりにその光景を目にした仙台っ子達は喝采し飾りを一目見ようとする人で街はあふれました。

翌昭和3年、元来旧暦行事だったのを新暦日付の月遅れ、すなわち民俗学上中暦と呼ばれる86日、7日、8日の3日間にわたり、 東北産業博覧会の行事として、さらに仙台七夕を盛んにしようと仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催で「飾りつけコンクール」が催されました。

参加したのは東一番丁、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなど11町会で、86日夕方から一斉飾りつけをし、32夜にわたる七夕が復活しました。 仕掛け物、電飾と様々な趣向を凝らした七夕飾りで、街はお祭りムード一色。しばしば通行整理や交通制限が行われるほどの混雑ぶりでした。 この年が仙台七夕が完全に復活した、記念すべき年とされています。