清浄光院万日堂は小学校の始まりだった?

【答えの要約】

江戸時代より寺子屋の機能があった清浄光院万日堂は、明治5年の学制発布により第七大学区第一中学区第十三番・小田原小学校として、明治6818日に小学校が開設され万日堂本堂を校舎としました。

 

 江戸時代、仙台領の寺子屋は567軒と東北一の数を誇り、文久年間には菱沼文吉美和が車通りに菱沼学校を、吉川直が空堀丁に吉川学校を開き、東六番丁には長田氏が算術十露盤を教え、東六小の南側の花京院では真山家が素読を教えていました。江戸時代より寺子屋の機能があった清浄光院万日堂は、明治5年の学制発布により第七大学区第一中学区第十三番・小田原小学校として、明治6818日に小学校が開設され、万日堂本堂を校舎としました。修業年限は6歳から10歳迄の下等で四年間が義務教育、上等は10歳から13歳の四年間とされ、明治6年の授業料は月額50銭と高額でしたが、学制発足当初の小学校の運営は主として学区内集金と寄附金によってまかなわれ、小田原小学校の場合、資料によると3銭を授業料として徴収するとの記載がありますが、実情としては少額の授業料を徴収、貧民に対しては無料とする場合も多かった。江戸時代から、武家の家族はもとより、陪審の家族、職人や商人などの庶民の子も寺子屋に通い、識字率と就業率は高かったことが窺われる。【3銭は現在の貨幣価値に換算するとが675800円】その後、家具の二郷家のあった場所に「弘道小学校」として移転後、現在の地に東六番丁小学校として移転整備された。