東照宮に二重の堀と馬柵があった?

【答えの要約】

東照宮一帯は荒巻・北根から鶴ヶ谷・小田原・上谷刈・古内にまで至る七北田川(冠川)南岸の一帯は、広く「科上(しなのえ)郷」と呼ばれ、荒駒放牧の地であり、奥州産馬の記録は奈良時代にまでは遡れます。 「大伴家持」は、多賀城防備上の人口増加策として東西に置していた「多賀郡」と「階上(しなのえ)郡」を、延暦四年、正規の郡の「城」に格上げし官人が統治させる必要性から、国衙の防衛と人口増加を目的として馬の放牧と馬作や城柵を造営。戦前〜戦後にかけての航空写真や、和紙公図を見ると、二重の堀には梅田側や四谷用水から水が引かれ、堀の両側には鬱蒼と樹木が生い茂る様子が記録されています。

 

 東照宮一帯は源俊頼が「とりつなけ 玉田横野の放れ駒 つつじが岡に あぜみ花さく」と詠んだところの「玉田横野」であり、荒巻・北根から鶴ヶ谷・小田原・上谷刈・古内にまで至る七北田川(冠川)南岸の一帯は、広く「科上(しなのえ)郷」と呼ばれ、詩中の「放れ駒」荒駒放牧の地であり、陸奥國分寺が奥州産馬の取引拠点として機能し始めた奈良時代にまでは遡れる。陸奥按察使(あぜち)・鎮守府将軍に任ぜられた「大伴家持」は、多賀城防備上の人口増加策として東西に置していた「多賀郡」と「階上(しなのえ)郡」を、延暦四年、正規の郡の「城」に格上げし官人が統治させる必要性とから、国衙の防衛と人口増加を目的として「城」に昇格。多賀城としました。また荒駒を操れる人材を、国家的に馬柵が経営されていた信濃から移民を当地に扶植。仙台東照宮の周辺に階上郡の「郡家」と馬柵があったのではないか、という説を、河北新報社編集長で郷土史家の「藤原相之助(そうのすけ)」氏が提唱。その著書の中で「私は此の玉田横野の牧も、征夷時代の柵戸(階上の柵)の址と関係があるではないかと考へました。東照宮下仙岳院の塔頭址から、曾て柵木の根基部を掘出したいふ老人より、掘り出した丸太の基根部を割って風呂焚にしたと尋ね聞く。この證蹟を得て、延暦時代の階上の柵は柵址らしいが、後には玉田横野の馬柵に利用せられたであらうとの考えが加はつたのです」と記した。戦前〜戦後にかけての航空写真や、和紙公図を見ると、二重の堀には梅田側や四谷用水から水が引かれ、堀の両側には鬱蒼と樹木が生い茂る様子が記録されています。現在は、東照宮の周りに堀が残りますが、外堀は埋め立てられ暗渠となり、道路として活用されています。