12 福沢神社と小萩伝説の謎?

【答えの要約】

諸説ある勧進は、昭和291954)年版『仙臺市史』に、福澤神社」を勧請した人物として「蜂谷俊延」の名を掲載。内容は「延暦七(788)年三月、山城國の豪士蜂谷俊延東奥下向の時、比叡山鎮座兒玉明神の神霊を玉田の里、福澤の地に遷座して當地方の守護神とした」と記載。同社境内の由緒には無いが、同社は奥州藤原三代秀衡の子、和泉三郎忠衡の遺児を匿って逃れてきた小萩尼の伝説ともつながり、国分荘園主の国分氏や伊達家の庇護下にあった仙岳院、東照宮の縁もあり、伝説に残る小萩の残した歌に「雨も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無の里」と後世この世を露無の里といわれています。

 

※昭和291954)年版『仙臺市史』は、旅篭町の北、福沢町に鎮座する「福澤神社」を勧請した人物として「蜂谷俊延」の名を掲載。内容は「延暦七(788)年三月、山城國の豪士蜂谷俊延東奥下向の時、比叡山鎮座兒玉明神の神霊を玉田の里、福澤の地に遷座して當地方の守護神とした」と

同社境内の由緒には無いが、同社は奥州藤原三代秀衡の子、和泉三郎忠衡の遺児を匿って逃れてきた小萩尼の伝説ともつながり、国分荘園主の国分氏や伊達家の庇護下にあった仙岳院、東照宮の縁もあり、伝説に残る小萩の残した歌に「雨 も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無の里」と後世この世を露無の里といわれています。 小田原蜂屋敷の伝承『封内風土記』や先の『仙臺鹿の子』によれば、明治以前の正しい地名は「蜂宅(はちやしき)―蜂屋敷」であったようです。この地名について、両文献史料共、仙臺藩主二代伊達忠宗の時代に当地で養蜂が着手されたことに因む旨を記しております。『仙臺鹿の子』によれば、承応元年五月に西国より蜜蜂を仕入れ、当地に百間四方―182m四方の屋敷を構え、おおよそ高さ三尺、廻り五~六尺の榎の木に蜂の親子ともどもを飼い留めて、周辺にはいろいろな花木を植えたのだそうです。しかし翌年七月、蜂が飛び立つや突如雷と暴風が襲い、蜂は散逸し養蜂も途絶えて荒れて元禄八年『仙臺鹿の子』の編纂時期?まで四十四年も経てしまったのだそうです。

『忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター)』には、それと異なる説が併記

延暦七(788)年に「蜂谷俊延」という豪士が山城国京都から落ち延びてこの地に牧場を開き馬を飼育したというものです。のち、鎌倉時代にこの牧場は日本一の名馬「木ノ下鹿毛(かげ)」を産出し、源頼政に献上されたとも伝えられているのだそうです。荒巻から小田原、宮城野原など旧仙台市内のほぼ全域とも言える陸奥國分寺の西北一帯が広く荒駒の放牧地であったこと、古来当地が全国屈指の名馬の産地であったことは研究されており、山城から落ち延びた蜂谷なる人物が産馬に関わっていたとする伝説は思いのほか示唆に富みます。

 何故なら、ここには「蜂」と「山城」というキーワードが出てきているからです。「蜂」は秦氏あるいは「任那(みまな)」の示唆である可能性がり、それが秦氏の本拠ともいうべき山城から落ち延びているのだとすれば、そこにはなんらかのメッセージ性があるものと捉えておく必要があります。大化以前に山城國に建立された秦川勝の私寺「広隆寺」の別名が「蜂岡寺」であることを忘れるわけにはいけません。